馬場馬術には、定められた演技をする「規定演技」と「フリースタイル」「キュア」と呼ばれる音楽に合わせて行う自由演技があります。中村選手は競技の中でこの「キュア、というのが大好きなんです。そのためのトレーニングというか、音楽をいつも聴いているんです」と言いました。
フィギアスケートでいうショートプログラムが「規定演技」だとすると、「キュア」というのは、いわゆるフリ-演技のこと。決められた16の要素をベースとして選手自身が構成します。その構成に音楽をつけて、演技を行うのですが、馬場馬術の技術や人間と馬の調和だけでなく、入場してくるところから採点ポイントとなります。もちろん選曲や表現力など芸術性も大きなポイントに。合計得点で順位が決まるのですが、もし同点だった場合には、芸術点が高い方が勝者となるそうです。
中村選手は「キュア」のトレーニング方法として「とにかくリズム感が大切です。練習場ではいつも音楽をずっと流していて、馬に乗っていても頭の中に音楽が流れるようにしています。頭の中で、1,2とカウントしながら、リズムをとる練習をしているんです」と練習方法を楽しそうに話していました。
実際はじめて「キュア」を映像で見たとき、馬がうきうきと弾んでいたり、リズムに合わせて尻尾を揺らしていたりしていたので驚きました。馬と騎手が踊っているみたいなのです。フィギアスケート競技のフリ-演技のようで、なんだか観ているだけで楽しい気持ちになりますね。
馬は耳がよく、人間では聞き取れない高い周波数の音が聞こえていると言われています。敵から身を守るために聴覚も発達したということですが、よく聞こえるだけではなく、感情によっても耳は動くそうで、たとえば興味のあるときは耳を前に向けたり、怒っているときは後ろに向けたりするのだとか。また、アンテナみたいにぐるぐる回転させることもできるのだそうです。
「キュア」の演技をしているとき、馬もしっかり音楽を聴いているのでしょうか。リズムに合わせて踊る馬はキュートで芸術的なので、見ごたえがありますね。
中村選手は北海道で生まれました。小学生時代、神奈川県へ引っ越したのですが、その頃「太っていたことや方言のことなどでいじめを受け、学校には友達が1人もいなかった」そうです。「それを担任の先生が気づき、交換日記を提案されました」。
小さい頃から馬が好きで日記の中に馬のことがたくさん書いてあったことから「先生が乗馬クラブに連れて行ってはどうですか?とおっしゃった」のが馬と本格的に出会うきっかけになったのだとか。初めて馬を実際に見て触ったとき、「あ、ふわふわー」と感じたそうです。
「馬がかわいくて、かわいくてしかたなかったんです。馬に乗ることより、馬に触れているのが好きで。でも乗馬クラブなので、乗らないといけない。同じ乗るなら、馬に苦痛を与えないように上手になろうと思いました」。このような馬への強い愛情が馬術を上達しようとする意識となり、やがて選手にまでなる原動力となったのかもしれません。
馬に上手に乗れることを「先生がクラスメイトに話すうち、いじめはおさまっていきました。馬が救ってくれました」と中村選手は言いました。馬をてのひらで、ぽんぽんと小さな子どもをあやすようにたたく中村選手の周囲には、ほんとうに馬が大好き、というやわらかな空気が広がっていました。
中村選手は、子ども時代から大学生、社会人となるまで馬場馬術の技術を磨き続けて、いまや確かなテクニックと知識を持つベテランになりました。孤独だった幼い中村選手に、よい先生との出会い、そして馬との触れ合いがあったことは素晴らしい体験だったのではないでしょうか。
そして、いま、57歳。現役の選手として挑戦をし続けています。当時、小さな同級生たちはこのように中村選手が成長するだろうなどということは、たぶん想像もできなかったでしょう。馬が大好きで、馬場馬術が大好きで、と初めて馬術クラブへ通っていた頃のピュアな気持ちをいまも持ち続ける中村選手。これからもいろんな出会いを大切にしつつ、馬場馬術の選手として、熱く練習を続けることでしょう。
「ともかく人の何倍も勉強しなければ、と思ってきました」と中村選手は熱く語ります。「それは馬場での練習だけではなく、いろんな種類の本を読んだり」など。勉強を続けてきたことが、中村選手の自信にもつながっているように思えました。
長い間、馬場馬術の現役選手としてやっていくのは相当の苦労があるようです。
「ある程度の技術がつくと勉強をやめてしまう人もいます」ということですが、中村選手は勉強をストップしてしまうことに不安を感じているようです。
「やはり姿勢とか、誰かに見てほしいと思います。崩れてしまってはいけないと」
そこで、中村選手はベテランにもかかわらず、
「いまでもときどきレッスンを受けているんですよ」とのことでした。
確かに自分だけのチェックでは、ほんの少しの崩れなら気がつかないかもしれません。客観的に批評してくれる人がいた方が、現在の姿勢はキープできるのではないかと思います。
このように努力を惜しまない中村選手ですが、「学生時代からオリンピックを夢見ていました」
と言いつつも、「でもそれは遠く、手の届かない夢だと思っていた」そうです。
卒業後インストラクターになっても、シュタールジ-クをオープンしても、その夢は心のどこかにあったのでしょう。
中村選手は「技術的には認めていただいている方々もいて。挑戦してみれば、と言う人はたくさんいたのですが、まさか自分が、と実感がわかなかった」と言います。
しかし、2014年のアジア大会で好成績を収め、その後の怪我で手術ののちパラ馬術出場資格を得、2018年国際パラ馬術CPEDIで3位に。オリンピックの夢がふいに目の前に開けてきました。
残念ながら定期的に行われるパラの資格検査で東京パラリンピック出場の機会は逃してしまいましたが、今後も国内で試合に出場していくそうです。
中村選手は、これからも愛する馬と共にチャレンジ精神と美しい姿勢を崩さず、努力や勉強に励んで行かれることでしょう。
「あの人とはウマが合う」という言葉がありますが、この「ウマが合う」というのは、
乗馬の「騎手と馬が息を合わせる」というところから来ている言葉なのだそうです。騎手と馬は息が合わないと上手に乗りこなすことができない、そういう意味だったのですね。
中村選手が出場する馬場馬術とは、馬と呼吸をぴたりと合わせなければならない究極のスポーツです。人間と馬が一体となって行う演技で点数を競う競技ですから、馬との呼吸をどのように合わせるか、というのは大きな課題となりますね。高い技術と時間をかけた準備、これは馬場馬術の大会に出るためのキーワードとなりそうです。
中村選手は「馬は口呼吸ができません。鼻からしか息ができない。鼻から息を吸って汗をかいたりするんですよ」と馬について説明していましたが、そのような生態の馬が、口呼吸できる人間と息をうまく合わせられるということが、なぜだろうはとても不思議に思えませんか?
馬が走った後、「鼻息が荒い」のも口呼吸できないことが原因のようです。馬だけではなく、多くの動物は口呼吸できないということらしいのですが、呼吸の仕組みさえまるで違う人間と馬がペアを組んでいる競技だと考えるとき、フィギアスケートのペア演技と比べても、馬場馬術で高得点を取ることがどれほどたいへんなことなのでしょうか。想像すらできません。
馬場馬術の練習の際、中村選手は「すー、はー、すー、はー、と馬と呼吸を合わせる」そうですが、「あるポイントで息を深く吐くと、ぴたりと合います」と呼吸の合わせ方にコツがあるのだと説明していました。
「このとき、馬と心が通じていると思って乗っているんです。でも、馬と呼吸が合っていることが、心が通じていることなのかどうかというと、馬はどう思っているのかわかりません」と笑いました。それでも、馬場馬術の競技で中村選手と馬とが芸術的な一体感を表現しているのを観るとき、人間と馬が心が通じ合う瞬間を中村選手はいつも感じているのではないだろうかと思えます。
中村選手が馬のたてがみをレモングラスの精油で丁寧にブラッシングすると、奈良県の澄んだ空気の中に、すがすがしいよい香りが広がります。馬は本当に気持ちよさそうです。「でもね、自己満足なのかもしれないんですよね。ほんとうのところ、馬はどう思っているかわからないから」と中村選手は言いますが、馬の表情は穏やかでやさしく、ブラッシングが嫌いには見えません。
「雨の日や雪の日は馬に乗りません。馬の気持ちを想像したら嫌だろうな、と思って」と言う中村選手ですが「でも、実は自分が雨の日には乗りたくないだけかも」と言って笑いました。馬は人間ではないので、意思を伝えることはできませんが、馬の気持ちを考え続ける中村選手だからこそ、馬と会話しているように見えるのではないでしょうか。
「買い物に行っても、自分のものよりまずニンジンとか、馬のものを買っちゃうんですよね」と笑う中村選手と馬は本当のファミリーに見えてしまいます。「どうしてあげれば馬が快適に過ごせるか、をいつも考えているんです」。
馬は大きくて強い動物という印象ですが、実は夏の暑さや冬の寒さに対して、丁寧なケアが必要な動物のようです。たとえば熱い夏には水分補給はもちろん大切ですが、それだけではなく、動いた後には体を冷やすことが必要で、冬には厩舎の温度調節も。
中村選手の馬は、毛並みが美しく輝いており、手入れが行き届いている感じがします。シュタールジ-クの馬たちは、四季を通じて快適に過ごせているのではないでしょうか。
中村選手は馬術をはじめた頃、「馬に体重をのせて負担をかけるのが嫌で、手入ればかりしていた」時期があったそうです。けれども、やがて馬にとって負担が少ない乗り方をマスターしました。
「学生時代は太っていました。でも、だからダイエットをしなくちゃ、とかそういうことは考えないです」と中村選手は言います。「騎手の体重が重くても軽くても関係ありません。座り方が重要なんです」。上手な座り方ができていれば馬の負担は少ないということ。ダイエットは考えない、というのはこういう意味だったのですね。
馬は草食動物で、かつては草原で群れで生活していました。だからなのでしょうか、社会性が高く、やさしい動物です。イルカなど動物に触れることで癒される「アニマルセラピー」というものがありますが、海外や日本の一部では「ホースセラピー」も行われているようです。おだやかな馬に触れることで心が落ち着きリラックスできるのだとか。
馬の快適さばかりをいつも考えている中村選手ですが、そのことが逆に、馬場馬術の苦しい練習があったとしても、馬によって気持ちが癒され、ほっとする時間が過ごせているのではないだろうか、と思いました。
奈良県のシュタールジ-クに暮らす馬へのご褒美は氷砂糖です。馬には長くて大きな舌がありますが、舐めるのではなく、人間のようにぽりぽりと歯で砕いて食べます。そして、食べ終えると、ぺろぺろと口の周りをいつまでもなめ続けて、余韻を楽しみます。
馬が甘いものを食べる、ということはみなさんご存じでしたか?
馬は草食動物です。古代から草原に群れで住んで、敵がやってくるとそのたくましい脚で走って逃げました。いまでも馬がとてもこわがりで、ちょっとした音にも敏感に反応するのは、こういう条件反射のような行動が身についているからなのでしょうか。しかし誰もがよく知っているのは、牧場などの映像で見るようなのんびりした様子です。馬がいつまでも地面の草を食べている光景が印象的ですが、これは、一度食べて反芻できる牛と違って食いだめすることが苦手な動物なので、いつも食べている感じになってしまうのだとか。しかし、いつも草を食べている馬が、甘い氷砂糖を好むなんて想像もできませんでした。
シュタールジ-クでは、大きなボウルにまず水分補給用である砂糖入りの水をたっぷり注ぎます。それを馬の口元に。すると、馬はごくごく飲みます。「馬は口呼吸できないので、ぺろぺろ舐めずに吸い上げるんですよ」と、中村選手は言います。確かに、舐めているのではなく、ぐんぐんと吸い上げては飲んでいるように見えました。その後、大好きな氷砂糖をぽりぽりと食べるのだそうです。
馬にもそれぞれ好物があるようで、トウモロコシなど穀類が好きな馬もいれば、リンゴが好き、スイカが好き、というフルーツ好きな馬もいて、馬はにんじんしか食べない、というのは馬のことをよく知らない人間が考えるイメージなのです。氷砂糖など甘いものを好む馬が多いなんていう情報は、乗馬でもはじめない限りわからないですよね。ただし甘いもの、といってもお菓子はよくないそうですが。また、甘い、甘くないにかかわらず、「馬に慣れてない人がえさをあげるとき、いきなり手を出すと馬はびっくりします」とのこと。
大好物の氷砂糖を食べた後、いつまでもまったりと甘さを楽しむ馬の行動は、なんともキュートで馬好きな人にはきっとたまらないしぐさなのでしょう。いずれにしても、馬の食べるシーンはなんともほのぼのしていました。
小さな頃から馬に触れ、馬と過ごして、馬場馬術の腕を磨いてきた中村公子選手。馬が大好きな中村選手にとって、馬のいる日常生活はきっと幸せそのものなのではないでしょうか。しかし中村選手は照れたのか「馬のいる生活が幸せだと、改めて考えたことはありません」と言いました。「なぜなら、馬のいる日常があたりまえだからなんです。家族といることと同じです。普通にごはんを食べているとき、いつもいつもああ幸せだ、とは思いませんよね。いて普通。いて当然。という感覚ですよね」。
このお話から、ずっとこれまで長い間、日常生活の一部として馬が常に中村選手と一緒にいたことがわかります。
それは中村選手の「練習」に対する考え方とも似ているような気がします。中村選手は「がむしゃらに練習する、というより馬場馬術は日々つみ上げていくものだと思っています」と言っていました。馬がいる生活も地道な練習も、中村選手にとってはごく日常的なことであり、特別なことだと考えてはいないのですね。
小さい頃から馬が好きで、ある程度年をとってから北海道などに移住して馬と暮らしはじめる人の話を聞くことがあります。都会で満員電車に乗りながら、いつか広い草原でのんびり馬と生活してみたいと夢を見ている人々もたくさんいると思います。中村選手のように好きな馬と好きな道をまっすぐに進んでいくことができる人というのは少ないかもしれません。馬が好き、というだけでは、日常生活のほとんどを馬と一緒にいて、さらに馬術の現役選手としてずっと第一線を走るなどということは、多くの人にとってあまり現実的ではありません。その点で中村選手は馬好きの人たちが持つ夢を、ある程度実現しているといえるのかもしれません。
「乗馬はただ楽しいけれど、馬術の技術を磨くのはたいへんです」と言いながらも満足そうに馬に寄り添っている中村選手。中村選手が大切にしているこの日常生活を持続するためには、相当の努力が必要だったのではないでしょうか。そして、これからも一般人では想像できないほどの努力が必要なのだと思います。
しばらくして中村選手は、しみじみと言いました。「なんとか自分も食べられて、馬に餌をあげることもできて、その上、みなさんに夢を見させていただけるって、すごい幸せですよね。幸せだ、とそう思います」と。
「馬に乗った時、後ろから馬の耳と耳の間の延長線上を見ています」。
中村選手は、いつも馬に乗る時「視線は上げ過ぎても下げ過ぎてもいけない」と、馬の耳を基準に風景を見るようにしているそうです。乗馬を一度もしたことがない人の場合、はじめて馬に乗った時、世界が少し違って見える気がする、ということですが、それは馬の上だと視線がずいぶん高くなるからでしょう。目線は地上から2M以上。その高さでスピーディに変化する景色を見れば、きっと新鮮な驚きがあるのだと思います。このような馬上からの風景をすっかり見慣れている中村選手にとっては、それは平凡な風景でしかなく、何も考えることなく夢中で心地よく馬に揺られているのかと思うと、実はそうではないようです。
中村選手は「いつも何か考えています。今日は緑がきれいだなあ、というようなことも」と言います。普通の人間が、広い馬場で馬を歩かせている人を見るとき、細かいことは何も考えず、おおらかに頭の中はひたすら静かでただ風だけを感じ、すっきりとしているだろうなと思いがちなのですが、どうやら違うみたいですね。
でもあれこれ考えながら乗るのは練習するときだけで、競技が始まれば集中して夢中になっているはずと思うのですが、中村選手は「競技中もいつも何か考えています」と言いました。でも「それは演技の展開のことだったり」。
なるほどクールに次の動きを考えているわけですね。さらに中村選手は言いました。「逆に集中しすぎてしまったりすると、馬のことが客観的に見られなくなるのでよくないですね。何かを考えられている間は、冷静だということだと思います。その方が落ち着いてやれます。観客のみなさんの顔も見えていますよ。ときにはギャラリーがたくさんいる場所でシャッター音が気になったりすることもあります。馬はこわがりな動物なので。でも、それはそれで自分はいま冷静なんだと確認しているところもありますね」。
馬上からの風景を見ながら、冷静に次の展開について考えられること。つまり余裕があることは競技において重要なことなのでしょう。
乗馬をするとき、馬の上では常にバランスよく、正しい姿勢をキープすることが大切であるといわれます。馬は臆病で、繊細。騎乗者の動きに敏感なので、馬の背中でぽんぽん弾んだり、ぐらぐら揺れたりすると馬が負担に感じるそうです。馬場馬術とは、馬上で正しい姿勢をとることを厳しく求められるスポーツです。ジャッジが審査するのは、美しい姿勢であり、動き。
中村選手は「馬場馬術は芸術だと思う」と言います。「たとえば4分半の持ち時間があれば、その時間は自分と馬だけが演技をします。ダンスの発表会などをイメージすると、ステージ上にたったひとりで4分半演技をする、というのはあまりないでしょう?」
中村選手は、馬場馬術の競技をする馬場をステージととらえていました。「馬場馬術は魅せる競技だと思うんです。見せる、ではなく魅了する、の魅せる」そのためには「何より、美しい姿勢が重要だと思います。たとえ、大観衆がいなかったとしても、この4分半は、貸し切りで自分の演技を魅せるぞ、この4分半をカッコよくやりたい、と思っています」
全国屈指の姿勢が美しい騎手として注目されている中村選手ですが、その美しい姿勢を保つために馬場以外でも、努力していることがあるそうです。中村選手が言うには、「鏡です。いつも鏡で姿勢を見ています。騎乗して鏡を見ると、つい自分ではなく馬を見てしまうと思うんですが、なるべく自分の姿勢を見るようにしています。そして馬に乗っていないときにも、鏡でいつでも姿勢をチェックしています。鏡を見ることで自分の意識も高まります」また「世界で一番美しい動物に乗るのだから、きれいに乗るのがあたりまえ、と考えています」と。このような気持ちをずっと持ち続け、いつでも美しい姿勢をつくるための工夫をしているのですね。
中村選手は「上手な人は見ていて、きれい」だと言います。「馬場馬術というのは採点競技です。馬を見ようと思えば、自然に騎手が見える。つまり騎手と馬がマッチして美しく一体化していなければならないんです」。
馬場馬術の、常歩、速歩、駈歩(=なみあし、はやあし、かけあし)など基本の運動をする際にいちばん意識しなければならない姿勢。中村選手は「肩甲骨と肩甲骨を寄せる感じで背筋を伸ばしてみてください。これが基本の姿勢になります」そう言って背筋を伸ばしました。長い年月、このようにぴんと伸びた背筋を保つことに強い意識とプライドを持って練習してきた中村選手。「なるべく上半身は動かないようにしています」。ストイックな練習法で、一生懸命に、地道に、コツコツと努力してきた道のりが想像できます。
「たとえ馬術のことをよく知らない、わからないという人が見ても、いつ誰が見ても、きれい。いつでもシャッターチャンスでなければならないと思っています」と言う言葉に、馬術の美しさに対するこだわりの強さを感じました。
奈良県の大自然が広がる地域の中に2008年に設立された馬術クラブが、中村公子選手が経営している「シュタールジ-ク」です。そこには、もちろんたくさんの馬が生活しているのですが、実は馬以外にも多くの動物たちを見ることができます。
小さい頃から何より馬が好き、そして動物が大好きで選んだ大学・学部なのだと思います。だからこそ馬以外の動物たちにも激しく心を動かされるようです。これまで、捨てられていた犬、飼い主のいない猫などを次々と拾っているうちに、シュタールジ-クには馬以外の動物たちが増え、現在の動物ランドのような状況になったのだとか。そして動物たちは種類を超えて楽しくいつもそこで遊んだり、ごはんを食べたりしています。
シュタールジ-クにいる動物たちをじっと見ていると、一匹一匹ユニークで、とても楽しいキャラクターだということがわかります。
たとえば、誰かが投げた石を取りに行き、ボールのように拾ってくわえてくるのが好きな犬。縦長の石をギザギザの歯でわざわざ縦にくわえてくるのが特長なのだとか。他にも、眉毛のような模様のある猫やブロンズ像のようにじっとしている猫など、濃いキャラクターの動物たちがたくさんいて、シュタールジ-クはいつもにぎやかだそうです。
中村選手は、「なにか落ち込むようなことがあると、厩舎に入って馬の横に座るんです」と言っています。馬も何かを察するのか、中村選手に甘えるように頬をすり寄せたり、顔をのぞきこんだり。馬が人間と心が交流しているようなしぐさを見せるのが印象的です。その穏やかな時間も、中村選手が練習するエネルギーになっているのだと思いますが、同じように他の動物たちの愛らしさもまた中村選手の心を癒しているような気がします。
馬術競技についてまったく知らない方の場合、馬術というものに対して、ヨーロッパの映画などでよく見る障害物を馬がカッコよく飛び越えるシーンをイメージとして持っていらっしゃるかもしれません。でも実はあれは障害馬術競技という馬術競技のひとつなのです。馬術競技というのは、「馬場馬術」「障害馬術」「総合馬術」「エンデュランス」に分かれています。
中村公子選手がずっと関わっているのはそのうちの「馬場馬術」です。馬場馬術競技は、室内・野外とも一定の馬場の中で行われるのですが、1騎ずつ、華麗な演技を披露するスポーツです。馬場は20×60mの長方形。その中で行う「常歩・速歩・駈歩=なみあし、はやあし、かけあし」が演技の基本となります。馬場の周辺にはアルファベットが印刷されている標記(=マーカー)が置かれおり、これを基準として演技をします。「A点からB点まで跳ねるようなパッサージュで。そこからは速歩。そして、あのD点で一回転するピルエット」と言う風に。
このように演技の内容がすべて決められているものを「規定演技」といいます。パッサージュ、ピルエットの他にも、脚を左右交差するハーフパス、足踏みをするピアッフェ、歩きながら脚を左右入れ替えるフライングチェンジなど、さまざまな演技があり、組み合せることが可能です。また、規定演技の他に「フリースタイル」「キュア」と呼ばれる音楽に合わせる自由演技もあります。
馬術馬場における規定演技において、ちょっとしたミスも許されないのは、フィギュアスケートのショートプログラムと似ていますね。中村選手もそのように実感しているようで「フィギアもジャンプの回転が足らなければ減点されますよね、そういう感じです」と言います。フィギアスケートのショートプログラムでは以前、きれいな曲線を氷上にミスなく描くコンパルソリなど決められたルールがありました。馬場馬術の規定演技にも、それと同じように繊細な動きを求められるのです。中村選手の「以前、馬がブレないようにずいぶん長く息を止めたまま馬場を歩いたことがあります」というお話を聞くと、フィギアスケートの選手とそれを見つめる大観衆と同じような緊張感のあるスポーツなのだなと理解できます。
中村選手は「馬場馬術のことをよく知らない、わからない人が見ても、きれいと思われること。それは大きいことです。馬場馬術はスポーツだけれども、芸術だと思っています」と馬場馬術の美しさに対する想いを語ります。フィギアスケートのリンクで繰り広げられる華麗なストーリーと馬場馬術の美しい演技。観客は、このふたつのスポーツを意識しながら、馬場での大会競技を観るのも楽しいかもしれませんね。
馬場馬術とは、どんなスポーツかご存知ですか。
馬場馬術(ばばばじゅつ)=ドレッサージュ (Dressage) は、馬術競技のひとつです。選手の年齢層は幅広く、また、オリンピックでは男女が同じステージで競えるただひとつの種目です。ドレッサージュをシンプルに説明すると、馬をどれほど正確に美しく運動させられるかを競う競技。決められた四角い馬場の中において、ルールに従い高等馬術を演じます。時間はたとえば4分半。それを複数のジャッジが採点、その合計点数で順位が決定します。
中村選手は「いちばん美しいと思える動物に乗るのだから、きれいに演技がしたいといつも思っている」そうで、試合をひとつの発表会、舞台ととらえ、美しさへの強い意識を持って常に練習しているのだとか。「でも技術的に上手なのと試合で高得点を得て勝つこととは違うんです」と言います。やはり馬は動物ですから、その日のコンディションで、大きく左右される繊細な競技なのですね。
騎手は馬を愛し、大切に手入れをし、そして懸命にトレーニングする。それが競技での演技につながっていきます。跳ねるように歩くパッサージュ。一回転するピルエット、足踏み運動であるピアッフェ。なめらかな毛並み。美しい筋肉。躍動感。日々の努力が、競技での高得点になるのです。
馬場馬術は歴史と伝統のある馬術競技ですから、ファッションも見どころ。選手全員がヨーロッパの上流階級を思わせるフォーマル・ウェアを着ます。馬もおしゃれにデコレーション。馬につける「イヤーネットに関してもセンスが出ると思う」と中村選手は言い、ご本人は「いつも(馬の額部分にかける)額革にはキラキラしたものを選ぶので、イヤーネットに関してはシンプルに馬の色にしています。夏は白ですね」と、かなりのこだわりぶりが伺えます。
もちろん、騎手のファッションに関しても。中村選手は好んで高さのあるシルクハットを着用しています。「20歳以下はかぶることができないシルクハットが好き。でも、最近では安全性の面でヨーロッパでも多くの選手がヘルメットになってきました。もしかするとそのうちシルクハットは禁止になるかも」と少し残念そうに言います。
馬の美しさ、躍動感。そしてファッション。近くで実際に見る馬場馬術競技は優雅で、魅了されるひとも多いはず。一度、ドレッサージュの大会を観に出かけてはいかがでしょうか。
MENU